ポストモダン原発

私が原発について発言するようになって様々な反応があったが、その中でもいちばん驚いたのは、いわゆる「原発萌え」という現象だった。原発が好きなんです、だって可愛いじゃないですか、三つ並んでいるのを見ると心がときめく、がんばっているんだな、って思う。だから原発推進です、という心象である。

驚くべきことではないのかも知れない。世の中では石油コンビナート萌え、自衛隊萌え、消防自動車萌え、電車萌えなど、ありとあらゆる人工的産物に人々はリビドー(性エネルギー)を投射して萌えまくっているわけだから、その対象が原発になっても何の不思議もない。

ここで自衛隊萌えだから自衛隊を批判する奴は許せない、という「論理」が生じても同じく不思議じゃない。原発が好きなんです。だから反原発は許せない、という「論理」もありうるだろう。AKB48が好きだから、それを悪く言う奴は許せないのと同じだ。

こうした萌えの主張は、原発が現実にどのような問題点をもち、それがどのような社会的な結果を引き起こすかを議論によって見極めるという「真理」にかかわる姿勢をはじめからとっていない。こうした後者の姿勢を近代的なもの、モダンなものと呼ぶことにしよう。

これに対して、科学とか原子力という概念に萌え萌えの場合は、全部それを正当化する論理を後から発動するだけである。もはや実相の見極めという姿勢ではなく、自分のフェティシズムを強化してくれるイメージだけを守れればいいのである。松本零士はかつて原子力の広告塔の役割を果たしていたが、これはその典型だと思われる。宇宙戦艦ヤマトの延長線上で原子力にロマンを見ているわけだ。これを近代の後に成立した姿勢という意味で、ポストモダンと呼ぶことにしたい。

近代以前(プレモダン)もあった。それはお上が示した方針には疑うことなく従うという権威主義だ。そこでもまた、ものの実相を人々が問題にすることがなかった。これを打ち破るために合理的議論という近代的態度が成立した。しかしポストモダンになってふたたび、人々は実相を問題にすることはなくなった。イメージの密閉空間がそこを支配する。

今日においては、いわゆる平和な日常のイメージこそがこのポストモダンの態度の対象になっている。近代的態度をとってそこに危険があるのではないかという探求の姿勢こそが、自らが愛してやまない平和な日常イメージを脅かす攻撃者(アンチ)だと受け取られるわけである。これをポストモダン保守と呼ぶことにしよう。

人々は今まで通りの永久に続く日常のイメージに萌え萌えである。そんな萌える人たちは、放射線を測定したり、危険性を訴えたり、避難を企てる人たちに対して、自分の日常イメージにケチをつけるとして憎悪を向ける。それは原発萌えが反原発を憎悪するのと同じであり、AKB48好きがそれにケチをつける人を憎悪するのと同じなのである。